2012-05

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消せます。

私と陰謀論(玉蔵さん拡散情報を含む)

まずは玉蔵さんの拡散情報から。

9.14近辺HAARPの動きに注意して下さい 拡散希望
http://goldentamatama.blog84.fc2.com/blog-entry-633.html

HAARPに見たことない動き 情報拡散希望
http://goldentamatama.blog84.fc2.com/blog-entry-637.html

9月14日近辺、地震の可能性です。
管理人も新聞等で簡単に調べてみたのですが、株式に関しては詳しくはありませんが、以下の銘柄が大きく取引されていたようです。

9月8日に株式会社 福田組の株価が大きく上昇。
9月9日に空港施設株式会社の株価が大きく上昇。

福田組は新潟市を拠点に、道路工事を中心に事業を展開しております。
また、空港施設株式会社は新東京国際空港の施設管理会社とか。

これらの情報から安易ではありますが類推すると、もし地震が起こるとしたら、新潟、関西(国際空港あたり?)のような感じがします。
どこで起きるか、はたまた起こらないか、わかりませんが、用心するに越したことはないでしょう。

-----------------------------------

さて、表題の私と陰謀論について。
ここ最近も様々な情報が錯綜して、管理人もいたずらに恐怖や不安が先行している現状があります。
このことに関して、まとめ、というわけではないですが、考察しておきたいと思います。

■私と陰謀論との出会い

一時期ウツを患ったりと、もともと精神的に不安定なものを持ち合わせている管理人なのですが、とある夜に精神世界の情報収集としてネットで調べ物をしていたとき、クリシュナムルティ氏の動画がないか探しておりました。何件かYouTubeなどにあったのですが、英語音声のみの日本語字幕なしのものがほとんどで、もともと難しい精神世界のニュアンスを英語で把握することも出来ず残念がっておりました。

その中で唯一、日本語字幕付の動画がありました。知っている方も多いと思いますが、「ツァイトガイスト〜時代の精神〜」という動画でした。氏の言葉から始まる、911を初めとしたその動画に衝撃を受けましたね(その後、この動画も二重三重に仕掛けられたマインド・コントロールのひとつとわかるのですが…)。それからというもの、そういった情報をあちこちで探していくうちに、真実(?)に近づいていくような感覚に捕らわれ、またこれまでとは違った考え方、さらには不安・恐怖を内に秘めていくことになります。その道すがら、玉蔵さんのサイトとも出会い、興味を深めていったわけです。

■調べる

陰謀論と出会ったころは、「これはとんでもない情報を得てしまった!誰かに知らせなくては!」という興奮にも似た感覚であったように思います。911やお金の仕組み、本当の支配者、書き換えられた歴史、歴史上の人物の本当の姿、マスコミや権力構造の実態、ワクチンやケムトレイル、などなど、調べれば調べるほど様々な情報が得られ、その都度暗い興奮の中にいたように思います。まぁ、調べるといってもまとめられた既存のサイトを片っ端から見る程度のことでしたが、そのサイトの真偽は置いておいて、流れ込んでくる情報を驚きをもって受け入れておりました。初めてそういうものに触れたという方々は、おそらくは同じ道を歩んでいると思います。

■混沌としてくる

地震兵器といわれるHAARPが大きく触れたり、よく見るサイトの記事に警告が載っていたりすると、それから1週間は落ち着かない日々となったりして、自分の日常生活にやや異常が出てきている感覚もありました。これまでは実際はガセばかりで何もないことが多く、そのたびに脱力感とも言えないだるい感覚をもって、それでもまた次に何かあるのではないか、とそれらの情報をチェックする日々が続いていきました。特に「ディープ・スリープ計画」という具体的に日付が指定されたものには自分が大きく振り回されたように感じます。

そんな中、玉蔵さんのブログと平行して愛読していたブログ「カレイドスコープ」で、玉蔵さんを名指しで批判する記事が!どちらも興味深く読んでいたので、この記事をきっかけに、私は「陰謀論」そのものに対してある種の懐疑を持つようになりました。しかし精神は混沌とした状態であることには変わりありませんでした。

■陰謀論の存在意義

カレイドスコープでの玉蔵さん批判記事を受けて、陰謀論そのものについて懐疑しました。そもそも陰謀論の存在意義とは何なのか?初めは自分の知らないことがわかる、ということで興味の赴くままにあれこれ調べていたのですが、入ってくる情報はネガティブなものばかり。確かに、陰謀論というだけあって、偽善の皮をかぶった正体を暴く、というものが基本であるので、その中身が本当の善だった!という情報は陰謀には当たらない。人間、ネガティブな情報ばかり聞いたり見たりしていると、当然受ける側の精神もネガティブなっていくでしょうね。たとえば、同居している人に毎日「金がなくてたいへんだ」とか「あいつは表では良い顔しているが、裏では汚い野郎に違いない」とか「ほんとに一般人はバカばっかりだ」とか言われていて、それを鵜呑みにしていたら精神が腐っていくのは誰でも想像できると思います。

そこで、陰謀論の存在意義とは?というところになるのですが、陰謀論を「正・反・合」の弁証法的に見れば「正」を現実世界の常識とすれば、陰謀論は「反」の部分に当たります。よって、陰謀論そのものだけでは、存在意義はなく、現実世界の常識と陰謀論を合わせて「合」の部分がなくてはならない。「合」は何かといえば、具体的解決方法とでもなりましょうか。そのため、陰謀論を語るサイトを見る場合、「合」の部分を意識しておかなければ、「反」側の意識のみとなるため、解決のない暗い情報を集め続けるだけ、ということになってしまいます。

そういう観点から見ると、玉蔵さんのサイトでは、物々交換サイトや情報共有など、少なからず「合」の部分を併せ持っているということが言えると思います。一方、カレイドスコープのサイトでは「合」の部分はここ最近の記事では語られず、もっぱら「反」の陰謀暴露を垂れ流すサイトとなっているため、このサイトだけを閲覧し続けると、やはり「反」側の意識が強化され、暗い精神状態へとコントロールされることになるように思います。

ここでまとめれば、陰謀論に触れてから精神状態を維持するために、三つの方法があると言えます。

・閲覧者側で現実世界の常識と陰謀論と、その先の解決法(具体的には危機回避や健全な社会を創る方法)を意識しながら生活している上で、陰謀論サイトを見る。

もしくは、

・現実世界の常識と陰謀論と、その先の解決法がバランス良く記事になっているサイトを選んで閲覧するようにする。

・陰謀論サイトは見ず、自身の目で現実世界の常識と陰謀論と、その先の解決法を模索し実践する。

三つ目はなかなかできることではないですが、思考が落ち着いていると自然とそういうものの見方になると思います(例えば、「このやり方は普通に考えておかしい」「こうしたほうが良い」など直感的で冷静な判断など)。

■「世界の中の自分」か?「自分の中の世界」か?

情報化社会と呼ばれる現在の世の中で、情報過多でいろんな情報に左右されるのは陰謀論に限ったことではありません。左右されるかされないかは最終的にはその情報に触れた個人の判断に委ねられます。玉蔵さんがいつも言っている「自己責任」というのもこれにあたり、至極正しいことだと思います。

ではなぜ私たちはいろいろな情報に左右されなければならないのか?という問題が自然と出てきます。まったくの不動の心があれば、どんな情報でも左右されず、我が道を行く、ということは理屈からも可能だと思われます。どのようにすればそのような心が身に付けられるのでしょうか?

釈迦牟尼仏は十二因縁において、すべては無明より生ず、と説いております。私たちは結局のところ、何もわからないまま生きています。なぜ生まれたのか?なぜ自分は自分なのか?なぜこの家族なのか?なぜ地球なのか?…あらゆる物事は突き詰めていけば、結局わからないものばかりです。人間はわからないものをわかったようなつもりになることであらゆる科学を発展させてきましたが、現象を捉えるだけでなぜそうなるか?はほとんどわかっていません。

ある博士は、仏教の言う「悟り」とは「法・理・事」を兼ね備えていることだ、と述べています。ここで言う「法」は仏法のこと、「理」は自分の出自、「事」は何を為すべきか、ということだと思われます。ようするに、仏の法(四諦、十二因縁、六波羅蜜など)を修めており、どういう因縁でなぜ生まれてきたかを理解して、今生にて為すべきことを為す、というのが悟りの状態と言えるでしょう。とてもじゃありませんが、一般人が到達できる境地ではありません。

しかし、悟りと似たような状態にすることは出来るでしょう。世界のいろいろな分野で活躍する人々は、その幼少のころに興味や関心から、「一生これを続けていく」というような、衝撃的な決断をしているでしょう。幼少でなくてもそのような決断を下して精進している人はたくさんいると思います。つまり、「私はこれをするために生まれてきたのだ」という決断です。それはある種、悟りと似たような状態とも言えなくもないでしょうか?

そういった決断を出来た人にとって、おそらく世界はひっくり返ることになるでしょう。それまではわからないことだらけで何となく生きていた状態(世界の中の自分)から、その決断によって積極的な状態(自分の中の世界)に世界観が転倒することになるからです。

世界の中の自分、という感覚で生きていると、広大無辺の宇宙の中で取り残された感覚のまま行きていかなくてはなりません。その状態では世界の変化ということが最大の関心ごとになり、考え方としては、世界が変わらなければ自分は変わらない、という受身の世界観ということになってしまい、その世界観が陰謀論などのネガティブなものを吸収してしまうと、いよいよ恐怖と不安、絶望と厭世という感覚に陥ってしまいかねません。

逆に、自分の中の世界、という感覚に転倒した人々は、為すべきことのための情報と自分の変化が最大の関心ごととなり、その他の情報はほとんど意味を成さずに通過していくことでしょう。考え方としては、自分が変わらなければ世界は変わらない、という能動的な世界観になり、陰謀論やそれらの情報に沿った世界不安は、それらの人々にとって、為すべきことを為すための「妨げ」となり、単純に困る、ということで回避、もしくは変革の意識を持って次の行動に移ることでしょう。

以上のように、悟りに近い状態の、ある種の決断を下す、というのが情報に左右されないための方法、といえるかもしれません。もっとも、本当の悟りを体現できればそれに越したことはありませんが…生まれた本当の意味を知る、というのはどういう感覚か?考えただけでもドキドキしますが、それはそれで不安もあるかもしれませんね(苦笑)。

■世界の変化より自分の変化を楽しめ

万物は変化する、というのは直感的に誰もが理解していることだと思います。しかし、いつからか、変化を好まない流れがあることも、感覚的に誰もが理解している。これはいったいどういうことか?

やはり動物として、根源的に変化を嫌がる性質があるのかもしれません。何もないときは人も動物ものどかなものです。しかし体が食べ物を欲し始める変化が始まると、それに突き動かされるように食べ物を求める。満たされればまた元通り。ましてや空気が吸えないという変化に対してはすぐさま強烈な苦痛を伴って、その変化を元に戻そうと喘ぐ。吸えるようになればまた、元通り。自分よりも強い動物が現れたときには強烈な恐怖を伴って、その変化を元に戻そうとして逃げる。いなくなればまた元通り。

人間は大きな脳を使って、過去と未来を無限に想像できるから、それらの変化を予測しうる。未来に起こるそれらのネガティブな変化は苦痛だから、あらかじめ回避できるように行動を起こす。例えば、食料を備蓄するとか、強い動物よりも強い武器を持つとか。やがて人間社会が大きくなると、相手は人間同士になる。仲間と敵に分かれて、敵に対するネガティブな変化を克服するために武器を作ったり制圧しようとする。人間の歴史は、そういうネガティブな変化に対する抵抗の歴史、ともいうことができるかもしれません。

現代社会でもやはりネガティブな変化に対処するための人生設計というものが重宝されています。日本で言うと、例えば大学を出ていないとダメとか、公務員が良いとか、資格を持っていたほうが良いとか。また、医療でもネガティブな部分に対処する(ガンを切除する、悪性なウィルスにだけ効く薬を投与するなど)ものが現代医学という形で成立している。政治・経済にしてもネガティブな状態を回避するために公費を投入するとか。そういった意識がいたるところに存在するのが現代社会かもしれません。

しかし、ネガティブな状況に対処するだけでは、他の動物と何ら変わりのない、常に恐怖と不安を持った無駄に賢い動物ということになってしまいます。誰にでも少しは経験のあるように、ポジティブな変化というものも確かにある。身体的には傷ついた体が癒えるとか、精神的には喜び、楽しみであるとか。人間社会がもう一段階上昇するとしたら、ネガティブな変化の対処からポジティブな変化の創造を基盤としたものである必要があると思われます。

人間社会を構成する個人の意識の変化として、ネガティブな変化の対処からポジティブな変化の創造を実践していく。そういったものから変革が起こっていくことでしょう。そして人間にとって最も楽しく喜ばしいことは、「自分自身の変化」です。そして、自分の変化が他の人々や自然に影響を与えることです。自分が笑顔で活動すれば、自ずと周りの人々も笑顔になっていく。とても単純なことなのですが、その価値が忘れ去られています。逆に、欲望・恐怖で他人をコントロールすることに慣れきっている人々がたくさんいる。そういう人は自分より強大なものに怯えながら虚勢を張って生きるしか選択肢が残されていない、というのはかわいそうなことではないでしょうか。

現代教育では徹底して人々を「世界の中の自分」というちっぽけな存在に洗脳してきた。そういったものに洗脳されてからでは、自分自身の変化が楽しいとか喜びであるとかは、なかなか理解できないでしょう。今一度、取り上げられた最も楽しく喜ばしいことである「自分自身のポジティブな変化」に興じてみてはいかがでしょうか?ほんの小さなことからでも始められる、まったく無害な"遊び"ですね。

■おわりに

以上のように書いてきた私も、未だ精神としては混迷の中。絶望的な世界を目の前にして、希望を見出すことが出来るか、の試みの文章です。絶望的な世界に対して「絶望的だ」と叫ぶのはバカでもできますが、絶望的な世界の中で一筋の光を指し示し、まい進する人々は美しい。出来ることなら美しく生きられたら、と願う人々が増えて、やがて実践し、それが光の束となり、暗黒の世の中を照らし出すときが来るかもしれません。

ビル・ライアンさん動画

管理人がよく拝見させてもらっているKazumoto Iguchi's blogより。

いろいろな情報が錯綜している中、極めて冷静な分析・考察を行っているビデオです。
管理人が印象に残ったのは、「アングロ・サクソンプロジェクト」の名前の由来、肯定する意識と否定する意識の戦い、過去に起こるはずだったことが起こらなかったこと、我々には気がついていない無限の力がある、というところです。

一般市民にとって、非常に希望の持てる内容です。

全部で6つありますので、順にご覧ください。


---以下、引用---

今回紹介するビル・ライアン(Bill Ryan)氏は、まさにそういう一人である。ライアン氏はもともと私と同様物理学者であるらしい。比較的最近親がお亡くなりになり、その遺産を受け継いだことから、それまでの職を辞し、この世界の謎解きを始めたところ、次第にこの人間の現実世界の「奥の院」に気づくようになったというわけである。

この「アングロサクソンミッション」というタイトルのプロジェクト・アバロンのプログラムは、この「ビル・ライアンの”預言」とも言えるものである。ライアン氏がいうように、予言と預言は異なる。予言(prediction)とは、これこれの方程式に入れた結果、その結果がこうなるとかいうようなものである。それに対して、預言(prohecy)とは、もしあなたがこれを変えなくては、未来はこうなってしまう、というようなものであるという。つまり、予言とは何がしかの理論上そうなるというものであるのに対し、預言とは未来のタイムラインを変えるためのものである。

ビル・ライアン氏のこのプログラムには、私がこれまでこのブログ内に書きためて来たような内容のすべてを非常に分かりやすく、その根源についてまとめている。彼は「これは非常に衝撃的内容を含む」といっているが、このブログの読者であれば、すでに免疫がついているから、それほどの衝撃は受けないだろう。むしろ「なるほど、なるほど」と合点がいくはずである。ぜひライアン氏の番組を見て欲しい。もちろん、そういう認識を共有したくない人はスルーして欲しい。

いずれにせよ、どうやら我々一人一人には本来備わっているまだ未知のかなり強力な能力が備わっているらしい。我々東洋人から見れば生粋のアングロサクソン人のビル・ライアン氏のような西洋白人の目には、目新しいことかもしれないが、古代の日本人が知っていた力、万物に魂が宿る(あらゆるものは生きている)とか、曼荼羅の世界(多重構造の宇宙)とか、こういうもので象徴される世界がどうやらまったく正しい世界観であるということはごく最近の物理世界や数学世界で分かって来つつあることである。もちろん、こうしたことが教科書に乗るまでには至っていないが、知る人は知っていることである。むしろ、ちょっと血の巡りの悪い科学者を使って知らせないようにしているというわけである。

かつて「猿の惑星」というSFがあったが、それでは、「他の星に不時着した思っていた惑星が実は未来の地球だった」という内容であった。どうやらこれとは逆に「ロズウェルに墜落したのは宇宙人だと思っていたら、実は未来の地球人であった」というのである。たしかにこれは衝撃的で面白い。

はたして真実はいかなるものだったのか?

まずは、ビル・ライアン氏の話を聞いてみよう。

---引用、終わり---

日本人に対する世界不安の軽減

しばらく更新が空いてしまいましたが、小文をひとつ。

昨今も世界情勢の不安を煽るニュースがあちこちで聞かれます。
重要なサイトの中には、そろそろ大きな動きがある、との情報が渦巻いており、そういった記事を見て不安な気持ちになっている方も多いでしょう。

ふと気付いたことをここに記しておきます。

こういった裏の情報を知ってしまった人や注意深く見守っている人のほとんどは、その情報を知るまで想像していた世界(資本主義社会とでも言っておきましょうか)に対して、なんらかの疑念を持つようになったと思います。もしくは、もともとおかしいな、と感覚的に理解していて、情報を知ってみて「やはり」、と感じている方もいるかと思います。

最近の日本の年間自殺者数が3万人超と多いですが、これらの人々は理由はそれぞれあるにしても、基本的には心の問題を解決できずに「死」によって解決した人、という意味では共通しています(経済苦、病苦も最終的にそれらを苦しみと判断した心の問題と捉えています)。

なぜこれだけ知的で高度に発達した社会において、心の問題を解決できない人が多くなったのか?

それはやはり、現代人の個々人の「孤立化」に筆者は原因を見ます。

家族を離れ一人暮らし。両親と別居する核家族。隣の人と挨拶さえしない都会の生活。電車内で無言のまま向かい合って座る人々。テレビを見ながらの食事。同じ家に住んでいながら、何をしているのかさえわからない家族。死後数週間経っても発見されない孤独死。

現代社会、特に都会の生活において、このような人々の「孤立化」はこれまで急激に加速しています。それがプライバシーが守られて良いとか、自由に生活できるとか、政府・マスコミ関係から良い面ばかり強調されて伝えられ、子供たちは平気で「一人暮らしが夢」みたいなことを言うようになりました。

そうなった結果、直接コミュニケーションのない近所の人やテレビの情報に対して、「きっと○○だ」「○○に違いない」など、どうでもいい詮索に時間を費やすことになり、本当のその人柄からはだいぶ離れた人物像を想像し比較しながら、「あの人よりは良い」「あの人が羨ましい」など妄想を膨らませたりしていることで、心がどんどん擦り切れていきます。

そして、現実問題で自分がある窮地に陥ったとき、込み入った相談をする相手もなく、一人過去の後悔と未来の不安に押しつぶされながら、自殺という安易な選択肢を選ばざるを得ない、といったようなものが、自殺に至る流れであるように感じます。

ここでタイトルに戻りましょう。

今これをご覧になっている方も、世界の未来や自分の将来の不安を少なからず抱えていると思います。

不安や心配する心を持つ人は、普段はとても心の優しい人が多いと思います。そういう方がこのような不安を煽る情報を見聞きしたときに恐怖・不安を持つのは当たり前だと思います。また、そうなることを狙っている連中がいることは皆さんもご存知の通りかと思います。

筆者は、日本人の大半がこのような優しい気質であるように思います。先に書きました自殺者が多いというのは、現代の資本主義社会というものが日本人の気質に合わない、その無意識的な違和感の結果、悩み自殺する、という風に思われるのです。

これから最悪の場合、資本主義の崩壊、戦争、新しい秩序の誕生、などの非常事態が起こるとなると、日本だけでなく世界中がパニックになるかもしれません。もしくは、大パニックにならないようにジワジワことを進めるのかもしれません。どちらにしてもこれまでの社会生活が大きく変わることになるでしょう。

そうしたときには、先に記した「孤立化」も崩壊し、互いに協力し合わねば生きていけない状況にもなるかもしれません。各国で報道されている、地震などの非常事態において、民衆が略奪を始める、というのは、推測ですがどの国も一部の悪い人々で、日本人ならなおさらあからさまな略奪に出る人は少ないでしょう。とすると、日本人は必然的に助け合うようになる、というのが筆者の考えです。

こういったとき、これまでの「孤立化」で心を痛めている人々は、逆に精神的にはチャンスになるかもしれません。これまで「孤立化」によって散々悩み、心を痛めている人々の本当の想いは、「他の人と仲良くしたい」ということだと考えます。どうしてもお金が絡むと、精神的な深いつながりというものはなかなか出来ないもの。非常事態の場合は、先に示したような近所の人々とダイレクトな情報交換が必要になってきますし、お互いの状況を真剣に考え協力するようになると思います。これは、それまで「孤立化」により叶わなかった、「他の人と仲良くしたい」という願望の実現となる、とも言えないでしょうか。

もちろん、現在の資本主義社会で夢に向かってまじめに成功している人々は、お金の価値よりも自己実現・協力者を財産と考えて成功しているので、こういった非常事態でもリーダーシップをとって他の人々と協力することでしょう。逆に、資本主義社会の構造上のスキを突いて成功している人々は、お金以外の人との関係や夢はありませんから、パニックを引き起こし、場合によっては略奪など極端な行動に出るかもしれません。

非常事態を「チャンス」ととらえる考え方は不謹慎かもしれませんが、ひとつの考え方として提案いたします。

「もし何かあったら」と考えたときに不安や恐怖が先行する場合、今までコミュニケーションがなかった近所の人に目を向けてみてください。「この人とどんな協力が出来るだろうか」「自分の知らない意外な知恵を持っている人かも」と考えると、その人に対する見方も変わり、自分の不安や恐怖が少しでも和らぐかもしれません。

「資本主義社会と一緒に壊れる、悪い社会環境や習慣・考え方がある」と考えると、不安の軽減に繋がるかもしれません。

真実という自己啓発。

本ブログは、玉蔵さんとブロともになりたくて作成されました。

やさしい語り口とは対照的な、耳を疑うような記事の連続。
恥ずかしながら、これまでそういったものに対して何も感じないまま過ごしてきました。

もちろん、それらの記事の内容は出まかせかもしれませんし、本当のことかもしれません。真偽のほどは実際に調査・経験しなければ得られるものではないと考えています。

これまで私が考えていたことは、自分の将来の仕事、趣味、結婚、子育て、老後などなど、これらのことをどうしようかと日々不安になったり、幸せを感じたり、ということの繰り返しでありました。地球温暖化などのグローバルな話は、確かにそうだろうなぁ、でも自分にはあまり関係のないことだ、というぐらいにしか認識していませんでした。そんな中で玉蔵さんのブログに出逢ったのです。

最初、記事を読み進めて行くうちに、強烈な不安と恐怖を感じました。本当にこんなことがあるのかと。
初めに感じた不安は、以前と同じような自分中心の自己保身的な不安・恐怖でした。
しかし、他サイトなども含めてそれらの知識を吸収していくうちに、これらの情報の真実性が増してきました。
自分も玉蔵さんの言う「キチガイ」になってきたということでしょう(^^;)

真実性が増していく段階で、自分の感じる不安・恐怖というものが変化していくことに気がつきました。
それは、「明日にでも何か起こるかもしれない、それではみんながかわいそうではないか」ということです。
自分を取り巻く人々は、以前と変わらず日常を過ごしている。変わらず一喜一憂をしている。それらの何気ないひとときが、これから起こるかもしれない災厄によってズタズタにされ、愛すべき人々が心身共々疲弊していく、という未来を考えたとき、「そんなことは許されない。させはせん。」という気持ちが湧いてきたのです。

それは、今まで自己中心的な考え方に凝り固まっていた自分にとって、急激な変化でした。些細なことにイラついたり迷ったりしている場合ではない。今自分に何ができるだろうか?そういうことを真剣に考え出したのです。

これはある種、自己が啓発された、と言っても過言ではないかと思います。



ここで注意しておきたいのは、玉蔵さんのブログの真偽はどちらでも良い、ということです。

自分は玉蔵さんのブログの記事を、最初に「恐ろしい、不安にさせるものだ」と判断しました。しかし、そういうものの見方を受け入れ世の中を見渡したときに、上記のような心境の変化が起こりました。

心境の変化を起こすものとして、過去も現在もこれからも、「自己啓発」に関する本は多数出版されているでしょう。私も微々たるものですが、その中の本を数冊読んだことがあります。内容としてはありふれたもので、「自分を否定しない」「自分を信じれば願いは叶う」といったようなものでした。それらの本を読んだときには、確かに高揚感などありましたが、すぐに逆戻りして迷いの中に埋没してしまっていたように思います(これは個人の問題が多いかもしれませんが)。

もし心に問題を抱えている方がおりましたら、玉蔵さんのブログはあなたに変化をもたらすかもしれません。

一度お試しください。

黄金の金玉をしらないか?

コントロール。

コントロール。

皆さんはこの言葉を見て、何を考えるでしょうか?

日本語では「調節、統制、制御すること。」(出典:ウィキペディア)という意味になるでしょうか。

人間は生まれてから死ぬまで、すべての時間で、この「コントロール」をして終わる、という風に言えると思います。

生命の誕生では、女性の卵巣で精子が卵子と出逢い、受精卵となってからすでに個人的なコントロールが始まります。受精卵はそれぞれの遺伝子情報から、母親から受ける栄養を「コントロール」して肉体を形成し、適切な大きさになったら、臨月であることを母体に対して報告することで母体を「コントロール」し、世に生まれます。

世に生まれたあとは、自力で栄養を取ることができませんから、空腹の不快として泣く事で母親を「コントロール」しそばまで来させ、「泣き止ませたかったら、それと引き換えに母乳をくれ!」と母親に母乳を差し出すように「コントロール」します。母乳を受け取れば泣き止むことで、「このメッセージを憶えておくのじゃ」と母親に対して示します。

この「コントロール」という制御、非常に快感で、よく赤ちゃんなど落ちているものを振り回したりするだけで楽しい遊びになっているように見えます。また、周囲の大人があれこれかまったりすると楽しそうに見えるのは、自我の形成上「自分はこれだけチヤホヤしてもらうほどコントロールできている!」と喜んでいるのかもしれません。

言葉を覚えるまでは、泣く・体を動かす、ぐらいで外界を制御しようとしますが、言葉を覚えることで、言葉によっての制御を試みます。「おなかすいた」「だっこ」「いやだ」などを感情を交えて発することで、周囲がそのコントロールに応えるかどうかをいろいろ試します。

周囲がその要望に応えればその制御欲求は満たされますが、一事が万事そうともまいりません。そして制御が失敗したときは不快となり、泣いたりわめいたりしますが、それはまた一時的なもので、次の瞬間には物理的制御の利くおもちゃなどで楽しんだりします。

基本的に無生物・もしくは小動物(虫など)・植物などは、物理的制御が容易ですので、一人でも楽しく遊ぶことができます。しかし、人間・犬・猫など外界を制御することが可能な動物は、人間個人からは容易に制御が利かないため、制御が失敗する可能性も多く、不快というストレスになることでしょう。

やがて、快・不快だけであった大まかな感情は、喜び・怒り・哀しみ・楽しみなどの感情に分割され、その内的な感情を自由に出すことで外的にコントロールしようとします。単純に言うと「自分が喜んでいるのだから、あなたも喜びなさい」「自分が怒っているんだから、それに気づいて私に従いなさい」ということでしょう。

ここまで確認してみますと、この「コントロール」には二つの性質があることに気づきます。

A.喜び・楽しみなど、あるがままの変化に対する肯定的なコントロール

B.怒り・哀しみなど、無変化・もしくは好ましくない変化に対する否定的なコントロール

人間は、このコントロールの性質を両方持ちながら生まれ、その都度どちらを使うか選択しながら生きている、ということが言えると思います。




【コントロール自我の形成】

生まれてから物心つくまでの間、絶え間ないコントロールとその成果により、個人の自我が形成されていきます。
(注:以下、肯定的コントロールをA、否定的コントロールをBとします)

■Aの成功、Bの成功が多い場合:

自分の考えが正しいという自己認識のもと、他人に対して自己主張を強める自我。
他者といるときは、Aでのコントロールに失敗すると、すぐにBでのコントロールに変更し、相手に認めさせようとする。またはその逆。
一人でいるときは、楽しいときは楽しいが、自分の範囲外のものに対しては、否定的になることが多い。

■Aの成功、Bの失敗が多い場合:

自分の感情をよく理解し、それぞれの場面で適切なコントロールを行う自我。
他者といるときは、Bの失敗が多いため、主にAを用いて、相手の反応を見て、的確に判断して場になじむこともできる。
一人でいるときは、Bは使わずに自分の成すべきことをAによって成してゆく。

■Aの失敗、Bの成功が多い場合:

基本的に対外的には不信になり、他者を貶めることで自分を生かす自我。
他者といるときは、Aの失敗が多いため、社会に出てからBによって他者をコントロールしようとするが、失敗することが多く、さらに内部に他者に対する怒りを溜める。
一人でいるときは、イライラしており、Bを使って見るもの・聞くものを否定するがその根拠はなく、対外的怒りを蓄積する。

■Aの失敗、Bの失敗が多い場合:

対外的・対内的にも否定的になり、憂うつな状態から抜け出せない自我。
他者といるときは、特に自己主張もなく、他人の意見に左右されるが、内的には怒りを蓄積させる。
一人でいるときは、憂うつなまま、対外的・対内的にも否定的な状態を継続し、怒りを蓄積する。

自我の形成において注意しておきたいのは、肯定的コントロールも否定的コントロールも、失敗すると対外的・対内的な怒りを蓄積させるということです。特に肯定的コントロールが失敗し続けると、人間は簡単に人間不信に陥り、否定的なコントロールで他者と関係を持つことを優先させるようになります。




【コントロールの結びつき】

これらのコントロールは、それぞれ同じ要素のコントロール同士が結びつきます。肯定的コントロールは肯定的コントロールと結びつき、否定的コントロールは否定的コントロールと結びつきます。

例えば、「この歌って聴いてて気持ちいいよね」と一方が言ったとき、「そうだよね〜」と他方が応えることで、肯定的コントロールの気持ちの良い結びつきという関係が得られます。

一方、「この歌って嫌いなんだよね」と一方が言ったとき、「そうだよね〜」と他方が応えることで、否定的コントロールの不快な結びつきという関係が成立し、互いの怒りが増えます。

これらのコントロールがぶつかったときはどうなるでしょうか。

例えば、「この歌って聴いてて気持ちいいよね」と一方が言ったとき、「いや、気持ちよくない」と他方が応えることで、肯定的コントロールが失敗し、否定的コントロールの手に落ち、不快な結びつきという関係が成立し、互いの怒りが増えます。

また、「この歌って嫌いなんだよね」と一方が言ったとき、「いや、そうでもなくて好きだよ」と他方が応えることで、否定的コントロールが失敗し、肯定的コントロールも効力をなくして、不快な結びつきという関係が成立し、互いの怒りが増えます。

このように、これらのコントロールがぶつかった場合は、必ず否定的コントロールに支配され、場は否定的になります。これにより、互いの怒りが増えます。人間のコミュニケーションというのは否定的コントロールにより否定の場が多く、怒りが増えやすい、ということが言えると思います。




【コントロールの背後にあるもの】

これらのコントロールには必ず裏で糸を引く感情があります。肯定的コントロールでは「喜び」、否定的コントロールでは「怒り」、が裏で働いています。

「喜び」というのはもともと無条件なものです。なんだか嬉しいときには何をしても寛容で、ちょっとやそっとのことでは「なに、たいしたことはない、よいではないか」という気持ちになります。欲望による条件付きの「喜び」もありますが、そのときも気分としては無条件の喜びに近いものがあります。どんな人でも一度はこういう経験があるのでないでしょうか。

一方、「怒り」というのは無条件には存在しません。「怒り」が初めて発生するのは「コントロールが失敗するとき」です。それは肯定的・否定的コントロールのどちらの失敗も「怒り」に繋がります。「哀しみ」は一見怒りとは違う感情のようにも見えますが、現実に起こったことに対する「そうなるのはイヤだ!」という怒りが形を変えて現れたものである、と仏道では教えます(参照:家出空間[iede cucan])。そのため人間は、愛する者の死など、受け入れがたい現実を目の前にすると「哀しみ」という名の「怒り」が発生し、内部に蓄積することで、今後「怒り」による否定的コントロールをするきっかけとなってしまうのです。

「恐怖」「恐れ」「不安」という感情があります。これも実は「怒り」が変形したものです。「恐怖」とは、例えばお化け屋敷などでこれからお化けが出るかもしれない(まだ出ていない)状況で感じる感情です。これは、「目の前にお化けが出たらイヤだ!」という怒りを内に秘めているのです。これは未来に対する「怒り」の感情です。もし、「お化けが出ても良い」という気持ちだと、恐怖は感じないのではないでしょうか。それは、その先に起こるであろう出来事を完全に受け入れている状態なので、非常に余裕のある状態です。「不安」も同じ理屈です。「仕事をやめてお金がなくなったらイヤだ!」という怒りが変形して、「今仕事やめたらどうしよう…」という不安になっているのです。

また、「後悔」という感情があります。これも実は「怒り」が変形したものです。「後悔」とは、過去に起こった出来事に対して「こんなことをしてしまった過去なんてイヤだ!」という怒りを内に秘めているのです。もし、「そういうこともある」と過去を受け入れているならば、「後悔」で苦しむこともないでしょう。

以上から、肯定的コントロールの背景には「無条件の喜び」、否定的コントロールの背景には「条件付きの怒り」があることがわかるでしょう。




【実際の例】

少々観念的になってしまったので、具体的な例を見ながらこれらのコントロールについて考えてみましょう。

(例1)
ちょっと部屋が汚かったので、キレイに掃除してスッキリ!というところに、「あら、部屋キレイになったね。エライ!」とやさしく笑顔で言われたとき。

これは肯定的コントロール同士の結びつきの例です。お互い気持ちの良い関係が感じられます。

(例2)
ちょっと部屋が汚かったので、キレイに掃除してスッキリ!というところに、「あら、まだ少し汚れてるんじゃない?掃除もしっかりできないの?もう一度やりなさいよ」とイヤな顔で言われたとき。

これは肯定的コントロールが否定的コントロールに汚染されて、言われた人が内部に怒りを溜めてしまう関係です。言われたほうは自分を掃除できない人間と否定的にとらえてしまうか、言ったほうに対して「コノヤロウ」と怒りをもってしまうかのどちらかでしょう。しかし、言った側はもう一度やらせるためのひとつのコントロールとして否定的コントロールを選択してしまっているのですが、結果的に失敗するため、言った自分も怒りを溜める結果になってしまいます。

(例3)

ちょっと部屋が汚かったが、掃除したいけどしない状態でほったらかしにしているところに、「まぁ、汚い部屋もしょうがないか。できるときやろうな」と笑顔で言われたとき。

自分の部屋が否定的コントロールにより汚れているため、すでに内部に怒りを溜めているところに、それを肯定的に言われてしまうと、逆に「どうせできないんでしょ」と否定されたように感じてしまうか、「まぁ、これでもいいか」と否定的コントロールを肯定してしまうことになるでしょう。どちらにしても内部の怒りが増えるか現状維持のままでなんの解決にもなりません。言った側は肯定する気持ちはあるにせよ、相手の否定的コントロールに太刀打ちできないため、肯定的コントロールが失敗し、少し怒りを溜めてしまうことになるでしょう。

(例4)
ちょっと部屋が汚かったが、掃除したいけどしない状態でほったらかしにしているところに、「あ〜あ汚い部屋。どういう神経してるんだかまったく。たまには掃除でもしろ!」とイヤな顔で言われたとき。

自分の部屋が否定的コントロールにより汚れているため、すでに内部に怒りを溜めているところに、それを否定的に言われてしまうと、いよいよ内部の怒りが爆発して反抗するかもしれません。反抗しないまでも、内部の怒りは倍増してますます掃除に取り組む気持ちにもならないでしょう。言ったほうもそういう事実がイヤですから、怒りを増幅させて、さらには否定的コントロールも失敗していますので、その分も怒りを溜め込むことになってしまいます。

このように、肯定的コントロールは相手も肯定的コントロールの状態でなければ成功せず、否定的コントロールも成功することはあまりなく、互いの怒りが増えるだけであることがわかります。




【否定的コントロールが成功するとき】

一般的な関係では失敗が多い否定的コントロールですが、成功しやすい例があります。

それは「恐怖」によるコントロールです。

先ほどの掃除の例では口頭でのやり取りでしたが、(例4)の言う方が、「すぐに掃除をやらなかったら殴るぞ!」という言葉を加えることで、殴られたらたまりませんから、容易に掃除をさせることができます。しかしどちらも怒りが増幅していることには変わりはありませんが。

怒りが表面化しない恐怖による否定的コントロールも存在するでしょう。(例4)の言う方が、「掃除しないとおこづかいなしね。」という言葉を加えることで、しぶしぶ掃除を始めたりします。これも条件付きの否定的コントロールのため、怒りが増えます(先ほどよりは増加は緩やかでしょう)。

ここまでは極めて単純な例ですが、社会的な例ですと犯罪が挙げられます。誘拐犯の脅迫、不安をあおる詐欺、強盗による脅迫、借金の強引な取立て、ストーカー行為、などなど…挙げればキリがないですが、犯罪とはあらゆる怒りから来るものです。何も怒りがない人は、犯罪したいとは思わないでしょう。

さらには、犯罪化されない社会的恐怖もあります。不安を煽る広告、会社員の左遷をちらつかせた人事、母親同士の交流におけるイジメ、子供同士のイジメ、地域での土地などの権利問題、などなど…こちらも挙げるとキリがありません。権力や欲望を背景に利用しやすい恐怖を用いる、ということです。そういう恐怖や不安があるところには必ず「怒り」が存在しています。

もっとグローバルな問題も、構造としては同じです。

「恐怖」「不安」を使ってコントロールすると、コントロールは成功しやすいですが、お互いの怒りは増幅するのです。




【誰が否定的コントロールをするのか・されるのか】

先にも書きましたように、人間は肯定的コントロールと否定的コントロールの両方を持って生まれ、それらを選択しながら生きています。では、その否定的コントロールはいったい誰がするのか?

それは個人の内部に「怒り」がある人です。さらに言えば、「不安」や「恐怖」や「哀しみ」や「後悔」など、怒りを背景にした感情を持っている人たちです。そして彼らは、ものすごくコントロールしたいので、コントロールされることを嫌がります。どんな複雑な手段でも使ってコントロールしようとします。否定的コントロールに関しては熟知しており、あまりにもそれを多用するので、ほぼ無意識的に否定的コントロールの思考と行動になってしまっているのです。

ではどのような人がコントロールされるのでしょうか?

実はそれも、個人の内部に「怒り」がある人なのです。自分の持っている「怒り」よりもさらに強力な「怒り」を持つ人間に直面したとき、それは「恐怖」となって表面化します。より強い「怒り」に出会った彼らは、否定的コントロールを熟知していますので、その先に何があるかもすぐにわかってしまうので、そのより強い「怒り」を持った人間に容易にコントロールされることを選択してしまいます(あれだけコントロールされるのがイヤなのに!)。

こうして、より大きな「怒り」による否定的コントロールの支配が進み、やがてそれは大きなピラミッドになります。その頂上にはいったい誰がいるのでしょうか?

それはもっとも強い「怒り」や「恐怖」を持った人間です。しかし、その上には?

もう人間はいません。その先には、人間の「怒り」が作り出した、もっとも恐るべき何かがいるのでしょう。

それは、恐怖の神様かもしれませんし、人間より怖い宇宙人かもしれません。

これらのコントロールは強固で、意識的には破れない、無意識的なつながりを形成しています。




【否定的コントロールから逃れるためには】

人間誰しもが持っているし、持ちやすい「恐怖」や「不安」を刺激してコントロールしてくる人に対して、逃れる方法があるのでしょうか?

ひとつだけあります。

それは、

「怒り」を持たないことです。「恐怖」を持たないことです。「不安」を持たないことです。「哀しみ」を持たないことです。

逆に言えば、

「無条件の喜び」に留まることです。「勇気」を持つことです。「希望」を持つことです。「憐れみ」を持つことです。

無条件の喜びに留まる人は、否定的コントロールに屈しません。どんな恐怖を前にしても、それを喜びとして迎え入れるからです。

勇気を持つ人は、否定的コントロールに屈しません。どんな未来が来ようとも、それを受け入れる覚悟があるからです。

希望を持つ人は、否定的コントロールに屈しません。どんな未来が来ようとも、そこから立ち上がることの希望が見えるからです。

憐れみを持つ人は、否定的コントロールに屈しません。どんなに怒りに苦しむ人が来ても、その苦しみを憐れむ心があるからです。

そして、無条件の喜びに留まる人は、肯定的にも否定的にも、何もコントロールしないのです!人間も動物もその他のものも。

あらゆる人為的コントロールから離脱して、宇宙のコントロール(摂理)に従って生きているのです!

何も人為的コントロールをしない心。宇宙のコントロール(摂理)に従って生きているもの。

それが「愛」なのです。




【愛とは?】

さて、「愛」とはいったいなんでしょうか?

またウィキペディアで調べてみますと、冒頭から、

「愛(あい)とは、崇高なものから、恋愛、そして欲望に至るまで様々な意味で用いられる概念である。〜」

となっています。「様々な意味で用いられる概念」では、もはや正当な概念ではいられないですね…。

このブログは筆者のひとりごととして、独断で書いておりますが、ここで「愛」という言葉の意味を、「コントロール」という立場から決めたいと思います。

愛(あい)とは、

何も人為的コントロールをしない心。宇宙のコントロール(摂理)に従うもの。


心とは本来ないもの、無我である、と仏道でも仏陀が教えています。無条件の喜びの中で、ただ見ているだけ。ただ聴いているだけ。ただ触れているだけ。

これを見たから嬉しい、聴いたから嬉しいなどの条件付きの喜びではなく、喜びの中で見る・聴く・触れる。

日々の中で、喜びとして食べる。喜びとして人に会う。喜びとして働く。喜びとして眠る。

これが「愛」を持つ心である、と筆者は考えます。

そしてもうひとつ、「宇宙のコントロール(摂理)に従うもの」。

人間は地球の生命である以上、空気が必要です。水が必要です。栄養が必要です。どれが欠けても存続できません。

生命の存続とは宇宙の摂理です。その存続に寄与し従うもの。それを「愛」と名づけても良いのではないでしょうか。

空気、それは愛です。

空気を生み出す生物である植物、それは愛です。

植物が存続するために必要な水、日光、大地、それは愛です。

日光を地球にくれる太陽、それは愛です。

大地という地球、それは愛です。

植物が気持ちよく伸びるための土、それは愛です。

土をより良くする微生物、それは愛です。

生命を存続させるために必要な水、それは愛です。

栄養をくれる植物、それは愛です。

このように定義すると、

私たちは毎日、愛を吸って生きています。

私たちは毎日、愛を飲んで生きています。

私たちは毎日、愛を食べて生きています。

私たちは毎日、愛からの光を受けて生きています。

そのように思うと、自然と日々に感謝できるようになると思います。

道端の雑草、それは愛です。

雄大な流れの川、それは愛です。

広く果てしない海、それは愛です。

・・・

・・・

果てしなく続くこの記述は、めぐり廻って私たちに帰ってくることでしょう。

私たち人間、それは愛です。

愛が、愛を食べ、愛を生み、愛を育て、愛に返る。

今すぐ全人類が、人為的コントロールというものを宇宙に返し、宇宙の摂理の中で愛と喜びと共に暮らせたら、どれだけ素晴らしいことでしょうか。。。。




【終わりに】

長くなりましたが、最後にいますぐできることを。

■他の人間をコントロールすることをやめましょう。

常に自分が他人をコントロールしていないかチェックして生活してみましょう。特に否定的コントロールに陥っていないかどうか。相手を否定する心は、すでに否定的コントロールを行っているということです。相手を否定的にコントロールしそうになったとき、すぐに気づいて、言葉を発したり行動したりする前にやめましょう。それがあなたの中にある怒りを静めるきっかけになります。肯定的コントロールはもちろん使って良いですが、失敗したときの寛容さを持ち合わせて主張しましょう。

■自分を否定的にコントロールすることをやめましょう。

常に自分が自分の行動を否定的にコントロールしていないかチェックして生活してみましょう。うまくいかないことにイライラして投げ出してしまったり、不安の中でうずくまって何もできなくなったりするのは、あなたの中に怒りがあるからです。そういうものを感じたらすぐに深呼吸。空気という愛をいっぱい吸って、植物やその他の摂理に感謝すると、あなたの怒りも静まるかもしれません。
また、モノを考えるときにネガティブな思考で否定的にコントロールの連鎖に陥ってしまうことは、内部の怒りを増幅させることとなります。思考の中に否定的な考えが浮かんだら、即座にその対処方法を検討し、対処可能なら即実行、対処不可能ならその思考を放棄して心の安全に努めましょう。

■自分を肯定的にコントロールしましょう。

人間は手足を使っていろいろなことを成していきます。これらのコントロールは非常に重要で、注意深くコントロールすることを心がけましょう。行動とは別の考え事をしながら動かしていると、微妙にいい加減になることも多いと思います。常日頃から体の動作に気をつけて意識的にコントロールすることを心がけましょう。
また、作業中以外で動作をしないときの思考は極力避け(考え事を続けると、必ず否定的なコントロールに支配されるため)、幸福な思考ができているかも確認しましょう。

■他人にコントロールされることをやめましょう。

否定的コントロールを多用する人に出会うと、あの手この手であなたをコントロールしようとしてくることでしょう。もしそれにより「怒り」、「不安」、「恐怖」、「哀しみ」など、否定的感情があなたに発生してしまったら、相手の思う壺です。それらの否定的コントロールを早めに見抜き、抵抗するのではなく心の内部で「かわいそうな人だ」と憐れみの心で怒りの発生を防ぎましょう。見た目はコントロールされているようでも、心がコントロールされていなければ、怒りが増すことはないでしょう。

■日々に愛を感じましょう。

先にも書きましたように、このブログでの「愛」の定義でいきますと、あなたを含め宇宙をあらゆるものはめぐり廻って「愛」です。あなたの周りにはどこに行っても「愛」しかありませんから、それらとの出逢いを楽しみましょう。


以上、乱文乱筆失礼致しました。

筆者の経験と思考により書かれていますので、独断に陥りやすいと思われます。

より良いわかりやすい文章にするために、建設的な批判をよろしくお願いいたします。

参考サイト:

家出空間[iede cucan]:http://iede.cc/

«  | ホーム |  »

プロフィール

Author:scolor
FC2ブログへようこそ!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

情報 (5)
日記 (1)
ひとりごと (4)
未分類 (0)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR